「あ」
その声に、本を読んでいた凪が顔を上げたことも知らずに、私は目の前でちょろちょろ動くそれから後ずさった。
「…何、どした?」
明らかに不機嫌そうな声をかけてくる彼に向き返り、微妙に顔をしかめてみせる。
「…蜘蛛」
それだけぽつりと漏らせば凪の盛大なため息が答えとなって返ってくる。しおり代わりの紐を凪が垂らすのを見届けて、すかさず近くにあったティッシュの箱を放り投げた。
舌打ち混じりに重い腰を上げた彼はどいてろと言わんばかりに私の前にずい、と押し出る。
白いカーペットの上をかさこそ動く小さな――それでも私にとってはたまらない蜘蛛を、凪はいとも簡単にゴミ箱へぶっこんでしまった。
いや、そんなことより驚いたのは、その一連の動作を無表情でやってのけた後に呟いた、彼の意味深な言葉。
「…自分を殺すなんて、胸糞悪いな」
――自分を、殺す?
「凪、今なに言…」
そこで言葉を切るほかなくなった。凪の細めた鋭い目が、こちらを睨むように見ていたから。
「お前」
ふっ、と一瞬、視界が純白に覆われたと思った刹那、脳髄に思いきり衝撃が来た。それが、自分が凪に押し倒されたからだと気づくのには相当な時間を要した。
「何で蜘蛛が蝶を食べるか分かるか?」
唐突で、よく意味の分からない問い。くらくらする頭で、私はたぶん首を横に振ったのだと思う。目の前にある凪の顔が満足そうに歪んだのがなんとなく分かった。
「蜘蛛は、蝶が好きなんだよ」
顔色一つ変えずにそんなことをほざく凪はとても真剣な眼をしていた気がする。
「蜘蛛は蝶の事をずっと見てたんだ。ひらひらと優雅に舞う蝶を、張り巡らせた巣の真ん中で。いつか近くに行きたい、傍にいたい、その思いと共にどんどん巣を大きくしていく」
空気を切るような鋭い衣擦れの音が耳に飛び込む。それが、凪の手によってワイシャツのボタンが外されたための音だと分かっているのに、身体が動かない。それをいい事に、彼は執拗に首筋へと唇を這わせた。
「そしてその願いは唐突に叶うんだ。蜘蛛は驚いた、自分の巣に、あれだけ夢見た蝶がかかってるんだからな。蜘蛛は急いで巣を伝っていった。だんだんと縮まる蝶との距離。胸は高鳴りっぱなしだ。
そしてついに蝶の隣までやってきた。これほど嬉しいことはないだろうね、蜘蛛は蝶を舐め回すように見た。いくら見ても飽きない」
淡々と口を動かす凪の眼が、ふと忌々しいものを見たように暗くなった。
「そして、同時に蝶を憎んだ」
するりと頬に骨ばった凪の指が流れていく。くすぐったいと感じるほどに優しい動きをするそれは、その眼とは似ても似つかない。
「蝶のその美しい、煌びやかな翅を見ているうちに、蜘蛛は気づいたんだ。自分がどれほど醜い存在なのかを。八本の足、身体、顔…蜘蛛は蝶に嫉妬した。『なぜ自分とこんなにも違うのだろう』と。
憧れは欲望に、愛情は執着に、憎しみは殺意に変化する。
蜘蛛は思った。
『蝶はいずれこの巣から、自分の元からいなくなってしまうかもしれない。ならそうなる前に、殺してしまえばいい。自分が蝶を喰らえば蝶は自分と常に共に居る。蝶を喰らえば自分は蝶と同じ存在になれる。自分も同じ美しさを手に入れられる』
…ってな」
何がおかしいのか、その口端をいびつに歪めながら、凪は耳に唇を寄せる。それだけの行為で、心臓が盛大に壊れ始めた。
「だから蝶を食べるんだよ、蜘蛛は」
囁かれる言葉だけで、身体が電流でも流されたかのように動かなくなる。凪はそのまま私の顎を持ち上げて、妖艶に笑って見せた。
「苦しくて狂いそうで壊してしまいたくなるくらい愛しいから」
塞がれる唇も、首に咲く紅い華も、すべて、
「――だから蜘蛛(おれ)も蝶(おまえ)を喰いたい」
私をこの巣から出られなくするための、甘い誘惑。
「お前は、俺が放さないから」
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